お経と仏像の深い関係
仏像の姿形は、仏様によって決まっています。
菩薩なら、髪を結い上げ、アクセサリーをたくさんつけてゴージャスです。
天部は服装が比較的自由な感じですが、身体的特徴は決まっています。
なぜ決まっているのか?
それは、お経に書いてあるからです。髪型、服装、身体的特徴など、かなり詳細に書かれています。
とういうことで、経典のことが知りたくてこんな本を買いました。
楽しみです。
般若心経について、以前こちらの記事を書いたのでご覧ください。
火伏の弥陀 〜栄国寺〜
大須仏壇通りを南に下る途中で東に曲がると、栄国寺というお寺があります。そこに「火伏の弥陀」「火伏不思議の弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来坐像があります。
▲栄国寺 門
▲本堂の看板
栄国寺
▲本堂
正式名は清涼山栄国寺(せいりょうざんえいこくじ)浄土真宗のお寺です。
京都の嵐山にある清涼寺と縁がありそうです。
江戸時代、この付近は尾張藩の千本松原刑場あったところでした。寛文4年(1665年)、尾張藩二代藩主 徳川光友が刑場を他の場所に移し、跡地に菩提のため「清涼庵」を開基したのが起源です。
当時、多くの切支丹が処刑されたため、彼らの菩提を弔うため供養塔が建立され、以来切支丹とは縁の深いお寺です。
現在では、切支丹遺構博物館が境内にあります。
阿弥陀如来坐像
▲阿弥陀如来坐像
本尊の阿弥陀如来坐像は、尾張北部の丹羽郡塔ノ地村・薬師寺のから光友が移させた仏像で、「火伏不思議の弥陀」と称せられ、鎌倉時代の作です。
元あったお寺付近も大火がなく、戦時中の名古屋大空襲でも、このお寺は焼けなかったそうです。
像高は2mを超え、その堂々とした体躯がありながら、全体のバランスが素晴らしい仏像です。写真でもわかるように、目が印象的です。
名古屋三大大仏のひとつです。
阿弥陀五臓仏
左脚を下げリラックスした体勢で、口元に微笑みをたたえた、美しい阿弥陀仏です。
胎内に五臓が納められている点が、最大の特徴です。写真がありますが、結構リアルな模型です。
本堂にはその他に、清涼寺式釈迦如来立像、馬頭観音坐像があります。
▲釈迦如来立像
▲馬頭観音坐像
また、他のお堂には、如意輪観音菩薩尊像、聖観音坐像などがあります。
名古屋市内で、これほどの仏像が残されたお寺は他にないと思います。火伏の弥陀のご利益ですね。
▲御朱印
大須仏壇通りを歩く
名古屋城から大須を抜け熱田までの道を"本町通"と呼びます。 江戸時代は尾張名古屋のメインストリートでした。
現在、往時の繁栄はありませんが、通り沿いには神社仏閣が多くあり、歴史の古い料亭や商店がわずかに残っています。
しかし、大須界隈になると今でも商店が立ち並びとてもにぎわっています。
▲大須の本町通
ところが、大須の南端を東西に横切る大須通を超えるとガラリと雰囲気が変わります。
通りの両側は仏壇屋さんばかりになります。
通りを一本入った裏通りにも、仏壇屋さんがたくさんあり驚きました。
▲仏壇屋の看板が並びます
ショーケースには、仏壇や仏像や仏具が並びます。仏像ファンの私はワクワクします。
今回は、栄国寺へ向かう途中だったので、店内に入りませんでしたが、次回は勇気を出して中を見たいですね。
実は、愛知県は仏壇作りが盛んな場所なんです。
戦火を生き延びた名古屋の美仏 〜七寺〜
名古屋市大須にある七寺(ななつでら)で、重要文化財の菩薩像に会ってきました。
▲真言宗智山派の準別格本山です
正式名は「稲園山正覚院長福寺」です。
別格本山とは… 今度調べます。
七寺
735年に創設された歴史あるお寺です。
栄枯盛衰を繰り返し、1611年 徳川家康の命で現在地の名古屋市中区大須に引っ越して来ました。創設から数えて3度目の引っ越しです。
当時は敷地が8000坪もあり、名前の由来になった7つのお堂が建っていました。また、境内には芝居小屋が3軒もあるほど賑わっており、当時は大須観音よりも大きかったそうです。
しかし、明治と大正の区画整理により1/6の大きさになり、第二次世界大戦の空襲で、お堂をひとつだけ残して全て焼けてしまいました。
今では、残ったお堂の周辺を残すのみとなりました。
▲奥がお堂、手前が寺務所です
かつての敷地には、マンションや飲食店が並びます
観音菩薩、勢至菩薩
空襲でほとんどの仏像が焼けてしまいましたが、奇跡的に観音菩薩と勢至菩薩だけが救い出されました。
高さが3mもあった本尊の阿弥陀如来は大きすぎて、運べなかったそうです。
▲勢至菩薩 出典 お寺のチラシ
両菩薩は平安時代末期に製作され、慶派の始祖康慶の作品ではないかと言われています。
私見ですが、整ったお顔と玉眼の目元を見ると、慶派の仏像で間違いないと思います。
▲戦災前の阿弥陀三尊 出典 お寺のチラシ
地元名古屋にもこのような素晴らしい仏像があったことを誇りに思います。
▲御朱印
▲戦火を生き延びた大日如来像。継ぎはぎがお寺の歴史を物語っています
タイムスリップできるお寺 〜奈良 薬師寺〜
奈良の西の京にある薬師寺の伽藍に立つと、いつも不思議な感覚に捉われます。
現在から奈良時代へ、奈良時代から現在へ、何度もタイムスリップするような感覚です。
理由はのちほどご説明します。
また、薬師寺には奇跡の美仏がある、私の大好きなお寺です。
東塔と西塔
▲左 東塔、右 西塔 出典「薬師寺HP」
薬師寺の伽藍には二棟の三重塔が向かい合って建っています。
東塔は約1300年前に建立され、現在も奇跡的に残っています。長年の風雪にさらされ、柱と扉は茶褐色に変色して渋みを感じます。
フェノロサは「凍れる音楽」と表現しました。
振り返ると西塔があります。1981年に再建されました。
奈良時代の姿を忠実に再現しており、塔の連子窓(れんじまど)は緑に近い「青(あお)」色、扉や柱は「丹(に)」色(現在では朱色と呼ばれる色です)に塗られ、とても華やかです。
奈良にあった平城京の建物は、青丹に彩られとても華やかでした。
その後、「あおによし」は奈良の枕詞になっています。
東塔を見ると、1300年の月日が流れた現在です。
振り返えると、1300年前平城京の人々が見たであろう西塔の姿です。
交互に見ると、現在と奈良時代を一瞬でタイムスリップできます。
▲出展 「JR東海 うましうるわし奈良ポスター」
奇跡の三尊像
奈良時代大寺院だった薬師寺は広大な土地を所有し、大小さまざまな建物がありました。
しかし、度重なる戦火と落雷などの自然災害で、東塔と東金堂以外は壊れてしまい、荒れるがままになっていたそうです。
しかし、本尊である薬師如来と脇侍の日光月光菩薩は、1300年間大切に守られていました。
現在は、1976年に再建された金堂に安置されています。
荒廃したお寺で、奇跡的に保存されていた薬師三尊。しかも、21世紀製作と言われたら信じてしまうほど、保存状態が素晴らしいです。
更に、姿形がとても美しいので、奇跡の仏像なのです。
▲薬師三尊像 出展「講談社 日本の仏像」
その他にも、素晴らしい仏像がたくさんありますので、みなさんにもぜひ訪れてほしいです。
ほんとうは怖かった、学問の神様
学問の神様として有名な天神さん(もしくは天満宮)。菅原道真公が祀られいますが、彼の天才伝説をご存知でしょうか?
聖徳太子なら、一度に三人の話を聞いて理解できたとか、弘法大師なら「弘法筆を選ばず」など、ことわざになるような有名な伝説があります。しかし、学問の神様でありながら、菅公についての天才伝説は聞いたことがありません。
それには理由があります。最初は、学問とまったく関係ない理由で祀られてたからです。 学問の神様は後付けだったのです。
異例の出世街道
▲出典 北野天満宮HP
菅公は845年に生まれました。幼少より学業に励み、特に、和歌・漢詩に優れた才能の持ち主の神童でした。学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ね、899年に右大臣の要職に任命されました。左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括しました。
経歴は素晴らしいと思いますが、神様としてのインパクトには欠けると思います。
左遷と憤死
ところが、突如藤原氏の策謀により、901年に太宰府に左遷されました。しかも、給与も従者も与えられず、悲惨な生活を強いられ、わずか2年後(903年)大宰府の配所にてその生涯を閉じました。
怨霊伝説
道真の死後、朝廷では菅公の左遷に関わった人物が病気や事故で次々と亡くなりました。
以下、主な人物を列挙しました。
906年 藤原定国、左遷の共謀者
908年 藤原菅根、左遷の共謀者、落雷で死亡
909年 藤原時平、左遷の首謀者、39歳の若さで病死
913年 源光、後任の右大臣。狩りの最中に泥沼で溺死
923年 保明親王、時平の甥
925年 慶頼王、時平の外孫、5歳で病死
極めつきが、930年 内裏の清涼殿に落雷があり多数の死傷者が出ました。(清涼殿落雷事件)
都は菅公の祟りだと大騒ぎになったそうです。
北野天満宮
落雷事件から菅公の怨霊は雷神と結び付けられました。947年 朝廷は菅公の怨霊を鎮めるため、火雷神(ほのいかづちのかみ)が祀られていた京都の北野に天満宮を建立しました。しかし、以後百年は災害の度に道真の祟りと恐れられていたそうです。
▲御朱印
天神さま
江戸時代になると、雷神の信仰が薄れ、神童だった菅公にちなんで学問の神様として信仰されるようになり、天神さま=菅原道真公になったようです。
天神社、天満宮は全国に約1万2000社あり、その総本宮が北野天満宮と太宰府天満宮です。
なお、防府天満宮(ほうふてんまんぐう)を加えて、日本三大天神と言われています。