大須仏壇通りを歩く
名古屋城から大須を抜け熱田までの道を"本町通"と呼びます。 江戸時代は尾張名古屋のメインストリートでした。
現在、往時の繁栄はありませんが、通り沿いには神社仏閣が多くあり、歴史の古い料亭や商店がわずかに残っています。
しかし、大須界隈になると今でも商店が立ち並びとてもにぎわっています。
▲大須の本町通
ところが、大須の南端を東西に横切る大須通を超えるとガラリと雰囲気が変わります。
通りの両側は仏壇屋さんばかりになります。
通りを一本入った裏通りにも、仏壇屋さんがたくさんあり驚きました。
▲仏壇屋の看板が並びます
ショーケースには、仏壇や仏像や仏具が並びます。仏像ファンの私はワクワクします。
今回は、栄国寺へ向かう途中だったので、店内に入りませんでしたが、次回は勇気を出して中を見たいですね。
実は、愛知県は仏壇作りが盛んな場所なんです。
戦火を生き延びた名古屋の美仏 〜七寺〜
名古屋市大須にある七寺(ななつでら)で、重要文化財の菩薩像に会ってきました。
▲真言宗智山派の準別格本山です
正式名は「稲園山正覚院長福寺」です。
別格本山とは… 今度調べます。
七寺
735年に創設された歴史あるお寺です。
栄枯盛衰を繰り返し、1611年 徳川家康の命で現在地の名古屋市中区大須に引っ越して来ました。創設から数えて3度目の引っ越しです。
当時は敷地が8000坪もあり、名前の由来になった7つのお堂が建っていました。また、境内には芝居小屋が3軒もあるほど賑わっており、当時は大須観音よりも大きかったそうです。
しかし、明治と大正の区画整理により1/6の大きさになり、第二次世界大戦の空襲で、お堂をひとつだけ残して全て焼けてしまいました。
今では、残ったお堂の周辺を残すのみとなりました。
▲奥がお堂、手前が寺務所です
かつての敷地には、マンションや飲食店が並びます
観音菩薩、勢至菩薩
空襲でほとんどの仏像が焼けてしまいましたが、奇跡的に観音菩薩と勢至菩薩だけが救い出されました。
高さが3mもあった本尊の阿弥陀如来は大きすぎて、運べなかったそうです。
▲勢至菩薩 出典 お寺のチラシ
両菩薩は平安時代末期に製作され、慶派の始祖康慶の作品ではないかと言われています。
私見ですが、整ったお顔と玉眼の目元を見ると、慶派の仏像で間違いないと思います。
▲戦災前の阿弥陀三尊 出典 お寺のチラシ
地元名古屋にもこのような素晴らしい仏像があったことを誇りに思います。
▲御朱印
▲戦火を生き延びた大日如来像。継ぎはぎがお寺の歴史を物語っています
タイムスリップできるお寺 〜奈良 薬師寺〜
奈良の西の京にある薬師寺の伽藍に立つと、いつも不思議な感覚に捉われます。
現在から奈良時代へ、奈良時代から現在へ、何度もタイムスリップするような感覚です。
理由はのちほどご説明します。
また、薬師寺には奇跡の美仏がある、私の大好きなお寺です。
東塔と西塔
▲左 東塔、右 西塔 出典「薬師寺HP」
薬師寺の伽藍には二棟の三重塔が向かい合って建っています。
東塔は約1300年前に建立され、現在も奇跡的に残っています。長年の風雪にさらされ、柱と扉は茶褐色に変色して渋みを感じます。
フェノロサは「凍れる音楽」と表現しました。
振り返ると西塔があります。1981年に再建されました。
奈良時代の姿を忠実に再現しており、塔の連子窓(れんじまど)は緑に近い「青(あお)」色、扉や柱は「丹(に)」色(現在では朱色と呼ばれる色です)に塗られ、とても華やかです。
奈良にあった平城京の建物は、青丹に彩られとても華やかでした。
その後、「あおによし」は奈良の枕詞になっています。
東塔を見ると、1300年の月日が流れた現在です。
振り返えると、1300年前平城京の人々が見たであろう西塔の姿です。
交互に見ると、現在と奈良時代を一瞬でタイムスリップできます。
▲出展 「JR東海 うましうるわし奈良ポスター」
奇跡の三尊像
奈良時代大寺院だった薬師寺は広大な土地を所有し、大小さまざまな建物がありました。
しかし、度重なる戦火と落雷などの自然災害で、東塔と東金堂以外は壊れてしまい、荒れるがままになっていたそうです。
しかし、本尊である薬師如来と脇侍の日光月光菩薩は、1300年間大切に守られていました。
現在は、1976年に再建された金堂に安置されています。
荒廃したお寺で、奇跡的に保存されていた薬師三尊。しかも、21世紀製作と言われたら信じてしまうほど、保存状態が素晴らしいです。
更に、姿形がとても美しいので、奇跡の仏像なのです。
▲薬師三尊像 出展「講談社 日本の仏像」
その他にも、素晴らしい仏像がたくさんありますので、みなさんにもぜひ訪れてほしいです。
ほんとうは怖かった、学問の神様
学問の神様として有名な天神さん(もしくは天満宮)。菅原道真公が祀られいますが、彼の天才伝説をご存知でしょうか?
聖徳太子なら、一度に三人の話を聞いて理解できたとか、弘法大師なら「弘法筆を選ばず」など、ことわざになるような有名な伝説があります。しかし、学問の神様でありながら、菅公についての天才伝説は聞いたことがありません。
それには理由があります。最初は、学問とまったく関係ない理由で祀られてたからです。 学問の神様は後付けだったのです。
異例の出世街道
▲出典 北野天満宮HP
菅公は845年に生まれました。幼少より学業に励み、特に、和歌・漢詩に優れた才能の持ち主の神童でした。学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ね、899年に右大臣の要職に任命されました。左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括しました。
経歴は素晴らしいと思いますが、神様としてのインパクトには欠けると思います。
左遷と憤死
ところが、突如藤原氏の策謀により、901年に太宰府に左遷されました。しかも、給与も従者も与えられず、悲惨な生活を強いられ、わずか2年後(903年)大宰府の配所にてその生涯を閉じました。
怨霊伝説
道真の死後、朝廷では菅公の左遷に関わった人物が病気や事故で次々と亡くなりました。
以下、主な人物を列挙しました。
906年 藤原定国、左遷の共謀者
908年 藤原菅根、左遷の共謀者、落雷で死亡
909年 藤原時平、左遷の首謀者、39歳の若さで病死
913年 源光、後任の右大臣。狩りの最中に泥沼で溺死
923年 保明親王、時平の甥
925年 慶頼王、時平の外孫、5歳で病死
極めつきが、930年 内裏の清涼殿に落雷があり多数の死傷者が出ました。(清涼殿落雷事件)
都は菅公の祟りだと大騒ぎになったそうです。
北野天満宮
落雷事件から菅公の怨霊は雷神と結び付けられました。947年 朝廷は菅公の怨霊を鎮めるため、火雷神(ほのいかづちのかみ)が祀られていた京都の北野に天満宮を建立しました。しかし、以後百年は災害の度に道真の祟りと恐れられていたそうです。
▲御朱印
天神さま
江戸時代になると、雷神の信仰が薄れ、神童だった菅公にちなんで学問の神様として信仰されるようになり、天神さま=菅原道真公になったようです。
天神社、天満宮は全国に約1万2000社あり、その総本宮が北野天満宮と太宰府天満宮です。
なお、防府天満宮(ほうふてんまんぐう)を加えて、日本三大天神と言われています。
秋に燕子花(かきつばた)を鑑賞する 〜2回目の国宝展〜
2回目の国宝展です。
(もう終了しました)
本当は、東京国立博物館の運慶展へ行くつもりでした。しかし、どうしても尾形光琳の「燕子花図屏風」が観たくて、京都へ行ってきました。
7年前、所蔵する東京の根津美術館へ行ったのですが、あいにく展示品の入替作業のため休館でした。それ以来、出会いを待ち焦がれた作品でした。
看板も燕子花に変わっていました。
今回も平日に行きましたが満員です。前回は開館前に並んで入場しましたが、公式ツイッターで調べたら、お昼は短い待ち時間で入場できるようなので、12時頃に行きました。中庭は人で溢れていましたが、待ち時間なしで入場することができました。ただし、館内は大変混雑していました。
燕子花図屏風とは
「伊勢物語」第九段「東下り」の一場面を描いた作品です
東国に下る歌人在原業平(あいわらのなりひら)が、三河国八橋(現在の愛知県知立市(ちりゅうし)八橋町)で川のほとり一面に咲く美しいカキツバタに心打たれ、遥かなる旅路と妻を思う歌を詠んだ場面です。
『唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う』
(何度も着て身になじんだ)唐衣のように(長年慣れ親しんだ)妻が(都に)いるので、(その妻を残したまま)はるばるきてしまった旅(のわびしさ)を、しみじみと思うことです。
各句の頭文字を取ると「か き つ は た」つまりカキツバタとなります。
私も25年前に見た、京都大田神社カキツバタの群落の美しさは今も忘れることはできません。
大田神社「かきつばた」のご案内│上賀茂神社(賀茂別雷神社:かもわけいかづちじんじゃ)公式Webサイト
八橋について
八橋の地名についてこんな由来があります。
昔、この地にいた医師が妻と二人の男の子と楽しく暮らしていました。しかし、医師は若くしてなくなり、残された妻は二人の子どもを育てるため、山でたき木を拾い、浦に出かけ海のりをとって、苦労しながらも子どもの成長を楽しみに暮らしていました。
兄は八歳、弟は五歳になったある日、母親が働きに出かけると留守番していた子どもたちは、母が恋しくなり川辺までやってきました。向こう岸で海のりをとっている母の姿をみつけると、駆け寄ろうとして、あやまって川に落ちて溺れてしまいました。
母は悲しみ、髪をおろして尼さんになりました。
「この川に橋さえあれば、子どもがおぼれることもなかったろうに、また、村の人たちも安心して、川を渡ることができるのではないか」と思い、観音様に祈りました。
ある夜のこと「浦へ行けば、材木がたくさん岸べに打ち寄せられている。それを使って橋をかけるがよい。」と、夢のお告げがありました。翌朝浦へ行ってみると、たくさんの材木がありました。
川はいく筋にも分かれ、クモの手のようになっており、たがいちがいに板を渡して向こう岸にとどく八つの橋ができあがりました。
村人は橋の数にちなんでこの地を八橋と名づけました。
八橋といえば、京都の銘菓八ツ橋。
このに感動した西尾家が、1689(元禄2)年、山城国愛宕郡聖護院村八ッ橋屋として開業。橋に似せた米粉の煎餅菓子を作ったのが西尾八ッ橋の由来です。
留守模様
この屏風絵には、業平をはじめ物語の内容を示すものは燕子花以外描かれていません。通常、8本の橋も描くことが多いのですが、それもありません。
これを「留守模様」と呼びます。主人公を描かず、道具や背景だけでその物語や歌を連想させる手法です。
光琳はカキツバタだけの究極の留守模様を描きましたが、当時の人は伊勢物語に思いをはせることができたのです。
愛知県知立市でも毎年ゴールデンウィークの頃に「史跡八橋かきつばたまつり」が開催され、美しいカキツバタが見学できます。
お祭り・イベント [史跡八橋かきつばたまつり]|東海道五十三次39番目の宿場町、かきつばたの街、知立市
▲キョーハクのゆるキャラ トラりん
国宝展に行って来ました!
▲図録
京都国立博物館で開催中の特別博覧会「国宝」を観ました。
開館前の8時に並んで、30番目くらいで入館しました。しかし、9時半の開館直前には500人以上並んでいたでしょうか。平日なのにすごい行列でした。
国宝展はⅠ期〜Ⅳ期に分かれ、少しずつ展示品を入れ替えます。私が訪れたのはⅡ期です。お目当は、
雪舟の国宝絵画6点
曜変天目(ようへんてんもく)
です。
しかし、すべて国宝なのでそれ以外の展示品も素晴らしいものばかりでした。
今回は特に印象に残ったものについてお話しします。
▲京都国立博物館本館 重要文化財です。もうすぐ、国宝になるかも。
華厳五十五所絵巻
『華厳経』入法界品 (にゅうほっかいぼん) にある善財童子(ぜんざいどうじ)の善知識歴参を描いた絵巻です。善知識たちと善財童子が面会する様々な場面が描かれていますが、善知識の姿がどれも個性的です。時々、クスッと笑える場面があり、まるで漫画を読んでいるようです。楽しい国宝です。
雪舟 国宝6点
6作品が一室に集まってとてもとても贅沢です。生で初めて雪舟作品を観ました。やはり素晴らしい作品ばかりです。特に、「四季山水図巻」と「慧可断臂図(えかだんぴず)」はとても印象に残りました。
墨がはっきり残っており、筆使いが手に取るようにわかるので、雪舟の描いている姿が頭に浮かびました。
風神雷神図屏風
鑑賞するのは2回目ですが、やはり素晴らしい作品です。本来なら怖い神のはずですが、ユーモラスな顔と体をしているので、可愛いらしく思えます。
志野茶碗 銘 卯花墻(うのはながき)
とてもきれいで光沢があり、約400年前の茶碗とは思えません。柔らかい形状は手のひらに乗せて眺めていたい衝動にかられました。
兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)
東寺の仏像です。鎧の彫刻がとても細かく精緻です。肩パット、バックル、胸当てに獅子の彫刻がありますがそれらがカッコいいですし、革ベルトがリアルなので、そこから鎧を外せそうです。ウエストが締まりプロポーションも抜群でした。
曜変天目
とても期待をしていましたが、ライトの反射がキツくて青白く輝くはずの斑文が白く光ってしまい残念でした。手にとって眺めたいですねー。
次回は燕子花図が展示されるⅣ期(11/14〜11/26)に訪れる予定です。
▲平成知新館
最後に、これから国宝展へ行られる方には平日をお勧めします。土日に行くと70分待ちとかあるようです。時間は開館1〜2時間前に並んだほうがゆっくり観られます。ただし、しばらくすれば館内はかなり混雑しますが。遅いとさらに混雑すると思われます。
▲正門